初めての中国(その1)
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 今年(2004年)4月、杭州、蘇州、上海 を旅行しました。私にとってはかなり刺激的な 旅だったので、雑感を記してみます。中国通の 方にとっては、何をいまさらという内容かも知 れないし、私の理解が不適切なことがあるかも 知れません。ご指摘いただければ幸いです。 1.自動車事情:  杭州、蘇州、上海の三都市間の移動と観光地巡りは貸切の小型バスだった。 都市の中心部では渋滞もあったが、高速道路で結ばれている都市間はスムーズ に移動できた。高速道路を走る車の数は日本の東名・名神と同じ程度だった。 高速道路を走りながら気がついたこと。それは農村地帯の民家のまわりに駐車 している車が全く見当たらないことである。一般道路を走っている車も見当た らなかった。ということは、自家用車は一般家庭にはまだほとんど普及してい ないということであろう。もうひとつ、日本の高速道路との違いのひとつは、 車間距離である。時速80キロ程度と思われるときの車間距離が10メートル 位というのもざらである。日本では「このアホめ!」と叫びたくなるような割 り込みをしてくる車も多い。日本の高速道路に設けられている車間距離の確認 標識は見当たらない。    koshu024.jpg      市街地での交通風景(杭州)  市街地での道路横断は恐怖である。青信号で横断歩道を渡るときでも右折車 が容赦なく突っ込んでくる。中国では車は右側通行なので、右折車に優先権が ある。その優先権は車同士だけでなく、歩行者に対してもあるようである。 いや、右折車だけでなく、全ての自動車が歩行者に優先するようである。市街 地でタクシーに乗ってみるとスリルがある。車一台分位の車間距離でスピード を出し、少しでも車間距離に余裕ができればすかさず右に左にと割り込む。 クラクションをひっきりなしに鳴らし、急ブレーキ、急な進路変更はざらであ る。このような環境で生き抜くにはかなりの技量が必要である。私の見た限り では、タクシーの運転手は全て中年以下の男性だった。自家用車と思われる車 を運転している人でも、女性は見かけなかった。そうだ、ここでは車の運転は プロの仕事なのだ。青葉マークを付けてよたよたと走るおばさんやネエチャン が幅を利かせる世界ではないのだ...。と考えているうちにひとつの記憶が 蘇ってきた。かつては日本でもそうだったのだ。「カミカゼタクシー」が世界 に勇名をとどろかせていたではないか。 (ちなみに、「カミカゼタクシー」の語は広辞苑にも載っている。) 2.積木工事:  現地ガイド曰く、現在中国で元気な産業の順位は次のとおりである。 1位:不動産 2位:電話 3位:自動車 4位:塾 5位:眼鏡 都市部では古い住宅が取り壊されて高層ビルが建てられている。古く朽ちた2 階建ての旧住宅街と道ひとつ隔てて高層ビルが立ち並んでいる。旧住宅街を歩 いてみると、路上のところどころに人が群がっている。4−5人が小さなテー ブルを囲み、その周りを見物人が取り囲んでいる。カードゲームに興じている のである。麻雀をしている人達もいる。中国の遊びといえば麻雀と思い込んで いたが、カードの方が多かったのに少し気落ちがした。なぜなら、今回友人と 4人でツアーに参加したのは、4人で中国の大きな麻雀牌を積む体験をしてみ よう、というのが大きな理由だったからである。        shanghai018.jpg          ゲームを楽しむ人々(上海)  最初にやった積木工事は杭州のホテルだった。嬉しいことに2階に数室の麻 雀部屋(個室)があった。使用料は1室50元(約650円)でお茶とサトウ キビがサービスとして出てきた。意外にも全自動の卓だった。牌は予想通り日 本よりも一回り大きかった。花牌はあったが赤牌はなかった。戸惑ったのは点 棒がなかったことである。中国でも常識のある人は賭けるだろうし、賭けたら 計算をし易くする工夫はするだろうに、どうしているのだろうか。こんなこと もあろうか、と我が4人組の組長は手を打っていた。点棒代わりに予め購入し ていたカード(トランプ)を使ったのである。この組長は、積木工事で土産物 代を稼ぎ出そうという魂胆が見え見えの悪役である。  二回目の作業は上海のホテルだった。このホテルも2階に数室の麻雀部屋が あり、夕食後に覗いてみると若い綺麗なお姉さん達が卓を囲んでいた。何とな く幸せな感じになったが、その日は疲れていたので翌日に期待することにした。 ところが、翌日フロントで申し込むと、中年の女性マネージャから「今日は麻 雀部屋は使えません」と意外な返事が返ってきた。「昨日は使えたじゃないか」 とか、「近くに雀荘はないか」などと食い下がったら、宿泊の部屋に道具を用 意することができるとのことだった。部屋で待っていると二人の若い娘が折り たたみ式のテーブルと牌を運びこんできた。テーブルは自動式ではなく、上に 毛布がかぶせてあるだけである。何はともあれご開帳となったが、牌を並べる 作業には一苦労した。最近は全自動に慣れてしまっていることに加え、テーブ ルの縁に突起がないので牌を並べにくかったことである。また、牌が大きく、 片手で押さえられるのは5枚だけ(日本では6枚)だったこともある。お茶も 何もサービスなしで使用料は100元だった。 3.俊子終焉の地:  上海で是非訪れてみたい場所があった。私の親戚筋(名前だけが)にあたる 作家 田村俊子 の亡くなった場所である。明治末期から大正にかけて人気作 家となった俊子は、晩年を上海で過ごした。日本租界のあった上海は、大陸に 自由を求め、心の束縛を嫌う日本人を惹きつけたのかも知れない。しかし、奔 放な俊子といえど単身中国で暮らすにつけては、深い孤独感に慟哭することも あったに違いない。俊子が倒れたのは終戦に近い1945年4月13日夜であ り、16日に亡くなった。場所は日本租界の一角で、現在の四川北路と昆山路 が交わるあたりということである。上海観光の3日目は自由行動の日であり、 上海の中心部に住んでいる友人宅に4人で押しかけた後、夜の雑技団見物まで 各自で散策することになった。我が4人組の飲兵衛3人が文学に興味を示すこ とは考えられないので、私は一人で出かけた。              shanghai042.jpg               俊子が倒れたあたりの昆山路(上海)  タクシーで目的地の近くまで行き、ぶらぶらとあたりを眺めた。二つの通り が交差するあたりの一角では、古い住宅が壊されている途中だった。近くには 高層ビルが建っていたが、古い住宅地も残っていた。少しわき道に入ると、昔 ながらの商店街があった。幅6メートル近い道路の両脇には2階建ての古い建 物が連なり、野菜、魚、調味料、肉、肉饅頭、ラーメンなどを売る狭い間口の 店が並んでいた。通りは平日の午後にもかかわらず人通りが多く賑やかだった。 このような風景は、俊子が住んでいた時代と変わりがないのに違いない。俊子 も足を向けたであろうか。いや、ホテル住まいをしていた気位の高い俊子は、 このような場所を好んで歩くことはしなかったかも知れない。俊子が住んでい た北京路のホテル「北京大樓」のあった場所は、事前調査が不十分だったこと もあり、探し当てることができなかった。  私が歩いたのは、奇しくも俊子が倒れた4月13日だった。                  (2004‐4‐29記 : つづく)    初めての中国(その2)へ  エッセイメニューへ  トップページへ